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 Dr.友末のゼミ風景ふうけいよみもの

コラムだい47回 Dr.友末のゼミ風景ふうけい心 身しんしん相関性そうかんせい

精神せいしん」 と 「身 体しんたい」 。このどちらが大事だいじなのか? そして、どちらをさききたえるべきか?

人間にんげんきていくうえでの根源的な問題もんだいとして、2500ねんも前からかんがつづけられてきたテーマだ。

これまで哲学者たちが、このいにどうこたえてたのか? 4つの時 代じだいけて整理せいりしてみる。

 

① 古代ギリシアの時 代じだい (哲学がはじまった時 代じだい)

プラトンは 「精神せいしんを修練しておけば身 体しんたい健全けんぜんになる」、アリストテレスは 「身 体しんたい鍛練は人間にんげん形成けいせいを伴うべき」 と、両ひととも身 体しんたい精神せいしん相関性そうかんせいについてろんじた。このてんは要注目ちゅうもく

 

② 宗教時 代じだい (ギリシア末期から中世)

人 々ひとびとは魂や神にけるようになり、人間にんげん身 体しんたいを蔑視するような身 体しんたい観があらわれる。

古代ギリシア時 代じだいとは正反 対はんたいの、精神せいしん身 体しんたいは別々に独立したものというかんがえが広まった。

日 本にほんでも吉田兼好 (1283~1352)が 「病なく身強き人を友達ともだちにしてはいけない」 と主 張しゅちょうした。

 

③ ルネッサンス・近世 (15世紀以降いこう)

ふたたび、健康けんこうで逞しいギリシア的人間にんげんがクローズアップされるようになる。

当 時とうじの思想家、ルソー、ロックらは 「精神せいしん身 体しんたい両方りょうほう同 時どうじに鍛錬すべし」 と主 張しゅちょうした。

おおくのスポーツの原型ができあがったのが、18世紀後半こうはんのことである。

 

④ 明治時 代じだい以降いこう

日 本にほんは欧米の知・徳・からだ理論りろん導 入どうにゅうするものの、知育に重 点じゅうてんかれる状況じょうきょうが続く。

スポーツで人間にんげん形成けいせい目 指めざ教育きょういくはじまるのは戦後せんごになってからだが、

その成果ががっているとはえないのが現状げんじょうだ。

身 体しんたい運 動うんどうかならずしも人間にんげん成長せいちょうさせるわけではないし、近年の勝利しょうり至上主義や商業主義の台頭は、精神せいしん身 体しんたいの二極化という、予期せぬ現象げんしょうき起こしている。

 

ここで注目ちゅうもくしてもらいたいのが、この、精神せいしん身 体しんたいの二極化。

これは、ネットやスマホの出現もおおきく関与しているのだが、それがなにをもたらしたか?

身 体しんたい感覚かんかくは薄れ、精神せいしん注目ちゅうもくされるようになり、「心 身 相 関しんしんそうかん」 という観 点かんてんけていく。

そしてこの傾 向けいこうは、哲学しゃ、文筆家、文芸ぶんげい評論家ひょうろんかといったひとたちに、顕著に表れる。

 

最近さいきんんだ 「スマホ時 代じだいの哲学」 (谷川嘉浩著、ディスカバー選書) が、まさにそう。

スマホ使用しよう人間にんげんおよぼす悪影響えいきょうを列挙し、それを解決かいけつするための方 法ほうほう具 体 的ぐたいてき提 示ていじしてあるが、

身 体しんたいまったけておらず、単なる精神せいしん論にわっているきらいがある。

 

まえ紹介しょうかいした三宅香帆みやけかほさんの本も、心 身 相 関しんしんそうかんという観 点かんてんちていたが、

この 「スマホ時 代じだいの哲学」 のカバーに三宅さんが絶賛コメントをせていたのは、

ある意味いみ、示唆的である。

 

はつ問題もんだいに戻ろう。 「精神せいしん」 と 「身 体しんたい」。大事だいじなのはどっち?

いまてきたように、古代の正解せいかいが中世では間ちがいになり、近代になってまた正解せいかいに変わる。

この矛盾むじゅんした状況じょうきょうを、れることからはじめないといけない。

 

人間にんげんはいくらかんがえても真実に到達しない、そもそもこたえはない」 と、厭世的気分きぶんれるか?

それとも 「こたえはたくさんあるわけよ。どっちでもいいじゃん」 と、退廃的気分きぶんれるか?

さ~あ、どっち・・・? わたしは、後ものりたい。その理由りゆうは・・・

 

後者は、正反 対はんたいかんがえを自分じぶんなかで併存させるということになり、

異質な人間にんげんれられるようになるし、ストレス耐性たいせいおおきくなっていく。

スマホで常時じょうじ接続の世界せかいに入りんだとしても、集 中 力しゅうちゅうりょく想像そうぞう力、共感きょうかん力が衰えるということはない。

 

さてここで、もっと共感きょうかんするのはどの時 代じだいかんがかたか? このいかけにたいする回答をあたえよう。

わたし場 合ばあいははっきりしている。ルネッサンス・中世の 「精神せいしん身 体しんたいを別々にしてはいけない」 という主 張しゅちょう、これが一 番いちばんしっくりくる。

 

もちろん、身 体しんたい精神せいしんのどちらにおもきをくかは、状況じょうきょうによりことなる。

そして、一 方いっぽうに偏らないようバランスをる、ということを前提にしたうえでの話だ。

やはり 「心 身 相 関しんしんそうかん」 が大 前 提だいぜんていなのである。

 

と、ここまでいたところで・・・ディスプレイを覗き、この原稿をんでいたゼミの女子じょし学生がくせいが、

先生せんせい、なんかこのごろ、イヤミな表現ひょうげんえてません?」 と、ってきた。

自分じぶんでもそうおもっていたので 「たしかに」 とこたえたのだが、そういう性 格せいかくなんだから仕 方しかたがない。

これからも、批判ひはん的・攻撃こうげき文章ぶんしょうを綴ってしまうだろう。

 

ま~そのときは、Dr.友末は、答を1つにめようとしていない・・・

どちらがただしくてどちらが間 違まちがっているという、狭いかんがえはっていない・・・

そんなふうにやわらかくけ流してもらえると、すごくうれしいです。はっは~っ (笑)

 

 

わたしきな哲学しゃ、ニーチェ (1844~1900) と、スピノザ (1632~1677)。

この2ひとは 「神ようなんておらん。人間にんげんみな死ぬんだから人 生じんせい意味いみはない」 といながら、

「じゃ~、どうでもい」 ではなく 「だから、人 生じんせい面白おもしろい」 というかんがかた提 示ていじした。

高校こうこう倫理りんり授業じゅぎょうのとき、このような論理展開てんかいがあることにおどろき、感 動かんどうしたのをおぼえている。

肖像画は、https://ja.wikipedia.org/wiki/フリードリヒ・ニーチェ

     https://ja.wikipedia.org/wiki/バールーフ・デ・スピノザ より