今から10年ちょっと前、50歳を過ぎた頃からですかね。
同窓会やOB会の案内が、たくさん届くようになりました。
私 自 身は出たり出なかったりで、出席率はあまり良い方ではありませんが、
色々観察していると、仲間が集う会の熱 心さには、3段階あることに気 付きました。
① 強い・・・活発で、会合はしょっちゅう開かれる。
②普通・・・大きな盛り上がりはないが、萎んでしまうこともない。
③弱い・・・思い出したように会が開かれ、音頭を取る人がいなくなると消滅する。
この①に当たるのが、かつての大学運 動部のOB会でした。
「です」ではなく「でした」と過 去 形にしたのは、OB会もコロナの影響をもろに受け、
今では②と③の中間になっているからです。この状況を、どのように捉えたらよいのか?
コロナの影響を引きずっている・・・?
そんなことよりも、便 利になれば忙しくなる、情報が増えるとストレスが増えるという、
世の中の衰退サイクルにはまり込んでしまったから、と私は考えます。
その大きな要因として挙げられるのが、私たちの学生時代には無かったネットやスマホ。
そうした便 利な機器が、ゆとりある空間、質の高い時 間を、隅に追いやってしまったのです。
こういう見方をすると、OB会活動が萎んだのは時代の流れだ、ということになります。
これは、ただ単に運 動部活動に限る話ではありません。
ネットやスマホの出現は、大学全 体の雰 囲 気を大きく変えてしまいました。
学生は学修時 間を増やすことが求められ、自分のやりたいことに時 間を割きにくくなる。
教員は休講にしたら、その都 度補講をしなければならない。
今の日本の大学には、グレーゾーンという清濁併せ呑む寛容な空間は、存在しないのです。
私が学生の頃のように、授業に出なくても単位が取れたというのは問題であるにしても、
今のようながんじがらめの空間、質の低い空間で、人が育っていくのか?
文科省は大学に細かい規則を押し付けて来るだけだし、
日本 人のパワーは今後も少しずつ、弱まって行くような気がします。
さて、話を戻します。OB会や同窓会の熱意。何番を目 指すべきか?
質の高い空間といっても、それは自 然に生じるのであって、
無理して作り上げようとしてできるものではありません。
また、①の会の質が高いかというと、必ずしもそうではなく、
一部の人だけが熱 心になったりすると、軋轢が生じます。
そして、①の会のメンバーが発 散している「いつも人と関わっていたいという感覚」。
これはどうなんでしょうかね~?
この感覚は、引退後もその組織に顔を出し続けている人たちからよく伝わって来るのですが、
「少なくとも良好な精神状態だとは言えない」と私は思います。
なぜなら、精 神 力が強いのは、一 人で何もしないでも生きて行ける人だ、と考えるからです。
人間関係は、べったりではなく、あっさりでよい。
OB会、同窓会、仲良し会、パーティには、あまり参加しない。
「〇〇さんとはもう会わない」と決める。
こういう選 択 肢も、周囲に惑わされないような精 神 力をつけるという点では、捨てたものではありません。
こう書いていくと、ひきこもりの人たち。
多くの人と関わらなくても生きて行けるという点では、精 神 力は強いと見 做せます。
弱いからひきこもってしまった、という単純な話ではありません。
もし、引きこもっている場 所が居 心 地良いなら、無理して外に出るのは止めましょう。
エネルギー不足のときにジタバタするのは、心 身 相 関という観点からも宜しくない。
しかし、間 違えないで欲しいのは、その居 心 地の良さも程度問題だということ。
あまりに良すぎると規律が無くなり、空間の質が下がっていくからです。
身 近な環境は「まぁ、なんとなく居 心 地が良いかな」というくらいが、ちょうど良い。
今から20年ほど前、地元広島で開催した「広島国際女子オープン」。外 国の選手もたくさん参加したレベルの高い大会です。運営はボランティアが主体で、私はディレクターを担当しました。大会と大学の授業期間が重なりましたが、様 々な業務は余裕で行えました。今はネットとスマホで当 時より各段に便 利ですが、大学はというと細かい仕事ばかりが増え、社 会 的活動に力を入れようと思ってもとても無理・・・という状況です。