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「海がえた。海がえる。五年振ねんぶりにる、尾道の海はなつかしい」

これは林芙美子『放浪記』の一文です。

 

昭和しょうわ5ねんの初版ではすこ文章ぶんしょうことなり、

「海がえる。海がえる。」と現在げんざい形を連続していました。

それが版をかさねるうちに「海がえた。海がえる。」と過去かこ形+現在げんざい形に修正しゅうせいされた。

 

はつの「る」が「た」に一文字ひともじわっただけなのですが、

このほうが情景が頭のなかに、はっきりと浮かんでませんか。

ゆっくりした在来線の汽車きしゃの窓に、波しずかであかるい海の景色がスローモーションでひろがっていく・・・そんなかんじですかね。

 

期待きたい実現じつげんしたよろこびを過去かこ形で表したあとに、現在げんざい形をつづける描写により、

海の景色をきっかけにおもいを巡らせはじめる主人公のこころうごきが、伝わってきます。

 

つまり、心ちにさがもとめていたものがやっと「えた」感動かんどう過去かこ形で表し、

その感動かんどうがずっとつづいていることを、「える」という現在げんざい表現ひょうげんを並べることで、

著者ちょしゃはその感動かんどうおおきさを表現ひょうげんしたかったのではないでしょうか?

 

さて、スポーツ科学かがく専門せんもんとするわたしが、こんな微妙びみょうな文体の比較をして何になるのか?

 

まあ、すぐにやくに立つことはないのですが、答が幾とおりもある問題もんだいふかかんがえていると、

視野がひろがっていく、という利点りてんがあります。

 

たとえば、最近さいきん勉強べんきょうもスポーツも、そしてひきこもり対策たいさくも、結果けっかに直結する指導しどう法をもとめられることがよくありますが、そういう指導しどうばかりではいけないのです。

 

なぜなら、答がすぐるような指導しどうばかりしていては、あたらしい道を創造する力は養えないし、

自分じぶん自分じぶんの居場所ばしょつけてこうという気持きもちも、しょうじて来ないからです。

 

とくに、ひきこもりの指導しどう合は、ひとつの型に封じ込めるべく「説得しよう」という気持きもちを捨てるべきです。また、「人はおもうようにうごいてくれないものだ」と、割り切ることも必要ひつようになります。

 

そして、一問一答ではない問題もんだい提 示ていじし、ひきこもっているひと自身じしんがじっくり自分じぶんかんがえ、ときには試 行 錯 誤しこうさくごをしながらでも回答をしていけるようかた向づける・・・

 

こういう持久戦にち込むことができれば、状況じょうきょう判断はんだん能力のうりょく(物ことを見きわめる力)は、間違まちがいなく向上こうじょうしていきます。自分じぶん自身じしん目指めざすべき姿勢しせいやスタイルが、はっきりえてるにちがいありません。