安田女子大学には「人間論」という哲学の授業があります。
私は哲学の専 門 家じゃないけど、身体運動の研究をしている関係上、
「身体の哲学」というテーマで、講義を1コマ担当することになりました。
この授業では、「真理とは何か?」「人間社会にはなぜ多様な倫理・権利が必要なのか?」
「私たちは何を基盤に生きて行けば良いのか?」
こうした根源的な問題についての論考を、資料を提 示しながら丁寧に進めて行きます。
なんか、むずかしそうでしょ?
でも、私の授業は違うんです。「精神と身体はどちらが大事か?」
ギリシア時代から現在まで、哲学者たちが出してきた解答を、
古い順に紹介していくだけ・・・というシンプルな内容にしています。
結論から言うと、この問いかけに正解はありません。
古代ギリシア時代は身体、宗教時代は精神、ルネッサンス時代は身体をそれぞれ重視し、
現在はその両方の主張が混在している・・・
要するに、人間の考えることはグルグル回っていて、
根源的問題に解答を与えようとしても、答が定まらないのが普通なのです。
このことは、哲学者が「人間とはこう生きるべきだ」と、ズバッと答を提 示したとしても、
鵜呑みにすべきではない、ということを意味します。
「本当にそうなの?」「それって、おかしくない?」と、自分の頭で考えんさいよ。
これが、私が講義中に、学生たちに強調する主張のひとつです。
哲学者の提 示する答が常に正しいなら、
戦争や紛争は、とっくの昔に無くなっているはずです。
しかし、現実はそうなっていない。これからも無くなりそうにない。それは何故か?
私が思うに、古来哲学者の主張というのは、
本人がその時代、その国の中で、安全に、有利に、そして幸福に生きて行けるように、
自らのために理論を構築した・・・そういう利己的な面があるからではないか?
そうだとしたら、その理論が他者に被害を及ぼすことが、そしてそれが、
大量殺戮、大量虐殺に繋がることだって、おおいに有り得るわけです。
実際、人間は長い歴史の中で、残酷な行為を繰り返してきました。
ここまでしゃべると、学生たちは顔をしかめ、次のように質問してきます。
「じゃあ、どうしたらいいんですか?」「哲学を勉強して意味ないんですか?」
そこで私は、少し突き放したように答えます。
「人間ってそんなもんよ。大したことない」
「でも、哲学の限界とか人間の負の部分をよく知った上で行動する。そのことが大事だ」
「こんな感覚を持てば、どちらが正しくてどちらが間違っているというような、狭い考えは起こらなくなる」
「自分を良く見せようという気も減る。そもそも人の評価が気にならなくなる」
「もしかしたらロシアだって、もうや~めた、と退散するかも知れない」
こうまくし立てると、学生たちの顔が、少し、ほっとした雰囲気に変わるのです。
https://www.irasutoya.com/2015/02/blog-post_77.html より